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西陣の伝統
京都の西陣といえば日本を代表する織物の町です。もともと御所で使用する装束を製作するために職人が集められて出来た町ですから、その歴史は平安京の歴史と重なります。西陣の機屋(西陣では機屋ではなく「織屋」というようである。)といえば何代も続く老舗のイメージですが、織屋というものは染屋よりも浮き沈みが激しく、3代もたないとも言われます。そのため「うちは代々西陣で織物業を営んでいる家系だが、現在の屋号になってからは自分が初代である」という業者も多いようです。織っているものも時代によって異なり、かつては着物一般を織っていましたが、戦後は特に袋帯が多くなり西陣織といえば修学旅行のお土産の金襴地のグッズを思い出す方も多いのではないでしょうか。あまり知られていませんが、絣の伝統もあり、1800年ごろには「矢代仁」が、もう見本帳をつくって経絣(御殿絣と呼ばれた)を商っていました。絣織物の商品化ということでは、越後上布とともに日本最古ということになります。
西陣の経営面の伝統といえば、賃機(ちんばた)というシステムです。賃機とは、職人が織屋に社員として就職するのではなく、夫婦単位で織機を所有し、独立して織屋から注文を受けて織ることをいいます。これは西陣の生産様式に合った柔軟な組織構造だと思われます。発注者は自社が企画した帯が人気が出れば、出機(でばた)を増やすことで短期に増産することが出来ますし、不人気ならばやめればいいという柔軟なシステムです。一方、受注者である賃機は一つの機屋にヒット作がなくても別の織屋から仕事が取ることができ、その過程を通して熟練した職人になっていくわけです。しかし不景気の際の調整弁という性質も持ってしまっており、特に昨近はこのシステムが弱者を苦しめるほうへ作用しているようです。ただ不況が理由だけではありません。
1つは安い機械織の帯が増えたことで、コンピュータ付の高額な織機が必要になり、夫婦単位の賃機も過大な設備投資をしなければ受注できなくなってきたことです。しかしその織機を導入した後で受注が減って破産してしまう人もいるし、それを導入すれば熟練の技を発揮する機会がなく本来の賃機の強みをなくしてしまう人もいます。
もう1つは中国生産が増えたことです。西陣が織物の町であるといわれるのは有名な織屋があるからではなく熟練した賃機が大勢住んでいるからです。賃機の多くは京都市内から丹後になっていますが、それはまだ京都府の中でした。しかし中国生産の割合が増えすぎると西陣のシステム自体が壊れてしまいます。しかし西陣でも織工に後継者がいるわけでもなく、中国生産の流れは止められません。
西陣の帯にはメガネ型の金色の証紙がついています。証紙には製織した機屋を表す2千数百番までの番号が入っています。流通業者は帯を見たり触ったりして目利きしているように思われていますが、実際にはその番号によってよい帯かどうか見当をつけていると思われます。また流通業者は全ての番号を暗記しているわけではなく、私の場合すぐに言える番号は30社ぐらいです。以前ここにその30社の帯屋の名前と番号を列挙していましたが削除しました。少し前には名門だったはずが、最近になって中国で量産してネットで値崩れしたり、着付けを無料で教えて高く帯を売りつける業者の協力企業を名乗ったりと、あまりあてにならなくなったからです。
ユーザーにアドバイスできるとしたら、なるべく古そうな小売店にデッドストックされていたものを安く買うといいのではないかというぐらいでしょうか。また証紙番号については、若い番号のほうが老舗なのですが、ときどき2000番ぐらいの帯でとても良いものがあります。それはたいてい若い番号の老舗の兄弟で最近分家した織屋だったりすることが多いです。
現代でいちばんおしゃれな帯を発表し続けているのは帯屋捨松(48)だと思います。
世間では、「洒落帯」というカテゴリーにありながら、ちっともおしゃれでない洒落帯が多いのですが、捨松はフォーマルな袋帯を作っても洒落ています。帯屋捨松の6代目の社長であった木村四郎は、かつて西陣の名匠といわれた図案家である徳田義三の下で修業した人です。そして7代目社長である木村弥次郎も徳田義三に師事し、岡尾邦彦とのコンビにより現在の帯屋捨松のスタイルを作りました。この2人は今も健在で後進の指導に当たっているということです。つまり現在の帯屋捨松のスタイル(デザインなど全て)は、西陣の歴史が古いといっても遠い先祖から受け継いだものではなく、徳田義三の影響下に木村弥次郎と岡尾邦彦のコンビにより確立されたものということです。また帯屋捨松という屋号も徳田義三が命名したそうです。つまり木村弥次郎という人は、西陣の機屋の7代目ですが、現在の捨松スタイルの初代であり、徳田義三派の2代目ともいえます。織屋は染屋よりも浮き沈みが激しく短命といわれますが、それでも西陣の歴史は長く続いています。西陣の伝統はこんな感じで受け継がれるものでしょう。
帯屋捨松の現況は、8代目にあたる木村博之さんを中心に20名のスタッフがいるということですが、その半分は二十代の若手だそうです。西陣の低迷が言われて久しいですが、魅力的なものをつくっていればちゃんと若い人は集まってくるもののようです。最近は中国にも工場があるそうですが、生きている企業であるからこそ、電機や自動車が中国に進出するように中国に工場を作るという流れになるのでしょうね。
今とても人気がある帯に洛風林がありますが、洛風林ブランドの帯の多くはかつては帯屋捨松で織られていました。徳田義三と捨松のデザインについて語るならば、徳田義三の図案もすべて受け継いでいる西陣のシンクタンクとも言うべき洛風林についても触れなければなりませんが、これについては別項を設けました。
徳田義三(かつて「しょうざん」が徳田義三の作品として制作したもの。)/帯屋捨松/洛風林

私が大好きな帯は織悦(964)です。どんなモチーフをテーマにしても洗練されたものをつくります。技術上の特徴は、帯地を織った後に裏地を縫付けるのではなく、最初から袋状に織っており表と裏の間に縫い目がない完全な袋帯であること、また地がらみ織とも言われる織り方で織られていますが、これは一見平板に見えますが実は高度な技術を要するもので、糸が引っかからず折りジワもつきにくいためトラブルが少ないということです。織悦の初代、高尾氏は明治30年生まれで、西陣の機屋で修業した後に独立開業しました。屋号の「織悦」は尊敬する光悦にちなんだものということです。

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